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インタビュー #8 「 ORB」



目というものは時に炎に焼かれ、時に矢に射抜かれ、時にクジラが直立する。これには憐憫の情さえ覚える。
しかし、目は時に口にもなり、鼻にもなるのだ。僕は、『ORB』というフリーペーパーを見た時に間違いなく、海外のZINEが持つあの【匂い】を嗅いだのだった。そしてどうやらそれは、英語と日本語からなるバイリンガルフリーペーパーであるという部分から放たれている訳ではなさそうだった。さらに、純度30%ほどのノスタルジーが僕に覆いかぶさってきた。
無性に気になったそのフリーペーパーをよく読んでみるとどうやら小笠原諸島について書かれているフリーペーパーであることがわかった。気になったものが身になる間も無く、さらなる好奇心がそびえ立ってしまったのだった。

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父島より船で24時間。たまたま発行者のルディ・スフォルツァさんが内地に来ているという情報を聞きつけ、早速お話を伺うことにしました。
なお、本文中の【東京】という表現はすなわち本土の東京を指しております。小笠原諸島も東京都ではございますが、便宜上今回はこのような表現で統一しておりますことご了承ください。

『ORB』

観光ガイドには書かれない、小笠原に住むヒトやモノ、文化や歴史を発信するフリーペーパー。創刊は2016年。おおよそ年2回の発行予定で、現在は2号まで発行されている。
https://www.facebook.com/boninislandorb/




・『ORB』を作り出すヒト、マチ

フリーペーパー、特に印象深いものには必ず物語があります。今回はひと際その点が気になってしまったので、フリーペーパーのお話を伺うより前に、発行者さんやそのバックグラウンドについてじっくり伺ってみました。

松江:スフォルツァさんのことについてざっくり伺ってもよろしいでしょうか?

スフォルツァ:生まれは東京です。父親がイタリア人なので以前は毎年夏にイタリアに滞在していたりしましたが、生活のほとんどは東京ですね。高校はスイスの学校に通っていました。高校卒業後は、東京の大学に通いながら仕事を転々としていました。いろんな会社で働きましたが主に日本語と英語を活かした内容の仕事が多かったです。その後、段々と東京から離れたいと思うようになり、以前より興味のあった小笠原に旅行として行きました。その後紆余曲折あって小笠原への移住を決断し、今年で小笠原歴5年になります。現在の仕事はフリーランスで日英翻訳しているのと、島の子供達や大人向けに英会話レッスンをしています。

松江:なぜ小笠原に興味があったのですか?

スフォルツァ:島という場所に興味があり、その中でも最も遠い所にある小笠原には何か惹かれるものを感じました。最初に旅行で小笠原に行こうと思った段階では島への移住は具体的に考えてはいませんでした。

松江:行ってみてどうでしたか?

スフォルツァ:当時色々な仕事をしてきてましたが中々うまくいかず、常に自分自身がしたい事を探していました。しかし、それが何かは分からなかったんですね。そうしているうちに次第に『自分が何をして生きたいか』ではなく、『どのような場所で生きたいか』というふうに考えるようになりました。そういった心境でいた自分にとって、とても印象深かった小笠原への旅は「あれ?ここに住むのアリなのでは?」という気持ちにさせてくれました。

松江:それは具体的にどのような点でしたか?

スフォルツァ:自然の環境がとにかく美しいという点もありましたが、それに加えて島に住んでいる人達の人柄の良さが大きかったです。出会った人たちは皆とてもおおらかで、島全体がとてつもなく平和だなと感じました。事件なんてほぼ起きません。家の鍵は基本開けっ放しで、車の鍵もロックしません。子供が一人で夜中に歩いていても何の心配もありません。こんなに自然が美しく、そして安全な人間コミュニティーは他にないと思い、ここなら生きるために自分のするべきことを見つけられるかなと感じました。

松江:最初に小笠原に行かれてから移住するまではどのくらいかかりましたか?

スフォルツァ:3-4年ですね。移住するまでには3回行きました。最初の旅行から今の妻(当時は未婚)と一緒に行っていたのですが、予想に反して彼女も(小笠原への移住に対して)乗り気だったんです。彼女も街出身なのでその反応は意外でしたね。

松江:実際移住される際に何が一番大変でしたか?

スフォルツァ:まず大変なのが家を探すことなんです。基本的に空き家がほとんどないんですよ。オーナーや大家さんの口コミで決まってしまうため全然情報が入ってこないんです。そもそも戸数が少ないですし。

松江:島全体として移住者を積極的に誘致しているということもないのですか?

スフォルツァ:積極的か言われればそうではありませんね。地方創生みたいな動きは特に見受けられません。ただ若い人はいっぱいきます。永住というわけではありませんが、短期で働いてお金貯めて、でまたどこかに行くみたいな。だから入れ替わりは激しいですね。1-3年くらい島にいたっていう人は割と多いと思いますよ。



松江:第1号の後記に「小笠原ほど様々な魅力と特殊性を持った場所は世界にも多くありません」という記述がありますが、どのあたりにそれを感じますか?

スフォルツァ:一つは歴史的背景。小笠原諸島は元々欧米人やポリネシア系の人々が定住していました。正式に日本となってから日本人も一緒に暮らすようになり、独自の言葉や文化が形成され始めました。今ではその文化的特徴は薄くなってきましたが、まだ残っているものもあります。ただ、これらの出来事はわずか200年弱前に始まったことですので、小笠原の歴史は若く、まだ始まったばかりとも言えます。
また、個人的に大きな特徴だと思うのは距離感ですね。小笠原諸島は東京から1000km離れていますが、たどり着くのに24時間かかります。この時間的距離は自分達の住む国や社会に対する客観的な視点を与えてくれます。おかげで同じ日本に暮らしていても、この国や社会に対する考え方は少し変わってきます。目まぐるしく変化し、混沌としてきた現代に生きる上でこのような視点を持てるというのは非常に貴重で重要なことだと思います。
あと、人間の住む場所と自然との距離感がとても近いです。海はどこに住んでいても数分以内にあるし、山や森に入りたければ同じような距離にある。このように、島の中と外の世界をとりまく距離感が絶妙だと思います。
もちろん自然環境に目を向けないわけにもいきません。小笠原の島々っていうのは一度も大陸と陸続きになったことがなく、独自の生態系を形成しています。そのため小笠原にしか存在しない植物や生き物が数多くあります。その特殊性はやはり魅力です。世界自然遺産でもある小笠原の自然は世界でここにしかありません。

松江:まだ残っている独自の文化を感じたことはありますか?

スフォルツァ:米軍統治時代に建てられた建物もまだ多少ですが残っていますし、日本語と英語が混じり合ったような小笠原言葉っていうのはご年配の方がたまに使っているのを耳にします。

松江:小笠原言葉??気になります(笑)。

スフォルツァ:例えば、、、車のバックを見るときにこうやってやりながら(手でバックするジェスチャー)「ゴーヘイ、ゴーヘイ」って言ってるんですよ。のちに知ったんですがGo ahead(この場合の意訳としては『下がってきていいよ』)が訛って「ゴーヘイ」になったみたいです。そういう英語が砕けて日本語になるみたいなものは割と多くあります。

松江:暮らしやすさについては東京と比べてどうですか?例えば気候だったり。

スフォルツァ:東京みたいなはっきりとした寒暖の変化はありませんね。内地とは違うものですが植物の栄枯で四季を感じることもできます。あと《色》ですね。

松江:色?ですか?

スフォルツァ:空や海の色ですが、春が終わりに近づき夏っぽくなってくると一気に小笠原の夏の海の色に変わるんですね。信じられないくらいの透明度が出てきて、ちょっと沖に出ると青が物凄く深いんですね。その色は特殊ですね。小笠原ではそれを『Bonin Blue』っていうんですけど。それはもうここにしかないです。
夕日もすごく綺麗なんですが、秋の夕日と冬の夕日はやはり明らかに違うので、そういうもので四季を感じることもできます。


誌面には美しい写真がたくさん掲載されている


松江:食べ物はどうですか?【小笠原に来たらこれ!TOP5】お願いできますか?

スフォルツァ:

・ウミガメ料理(ほとんどのお店にあります)
・島寿司(主に漬けのサワラのにぎり)
・トマト(まずはそのまま食べるべし)
・レモン(そのままでも食べれるくらい甘い)
・ボニンアイランドコーヒー(USKコーヒーというカフェで飲めます)
※順不同

ですかね(笑)。

松江:ウミガメ!!???食べていいんでしたっけ??

スフォルツァ:はい。小笠原の伝統的な郷土料理です。だいたい刺身か煮込みでいただきます。

松江:刺身、、、。美味しいですか?

スフォルツァ:、、、(笑)。個人的には食べても食べなくてもいいという感じですね。

松江:でもウミガメを食べるということ一つとってもやはり独自の文化や歴史を辿ってきていること実感しますね。先ほど距離のお話もありましたが、小笠原の新鮮で地に足のついた情報がこちらに中々入ってこない理由がだいぶわかってきました。

スフォルツァ:島には娯楽施設がないこともあり、年間通して島民が参加する行事なんかも多く、どのイベントも大人から子供まで多くの人が参加して、みんな全力で楽しみます。そこも小笠原のとても良いところです。例えば夏の盆踊りは三日間続き、だんだん人が増えて踊りの輪は二重にもなり、最終日の最後の踊りの後は必ずアンコールがおきます。自分も旅行で訪れたときこれを目の当たりにして、「なんて平和なんだろう、、!」と思わず踊ってしまったのを憶えています。
秋にも例大祭があり、三日間の間に神輿担ぎや、相撲大会、演芸大会が行われます。1日かけて村を回る神輿担ぎの熱気もすごいですが、相撲大会も観客席に収まりきらないくらいに人が集まって盛り上がります。小笠原の相撲大会ということで、父島、母島、そして硫黄島に駐在している自衛隊員の方々もこの時期に合わせて来島し、参加します。いつも決勝に残る人達は素人とは思えない技と迫力です。その中でも硫黄島の自衛隊の人達は体を鍛えているだけあり手強く、この一戦は観客も注目の大一番です。どうしても ホームである父島や母島の出場者への応援の方が勝るので、いつも自衛隊の人達がヒールみたいになります(笑)。でも終わるとどちらが勝ってもみんな拍手で称え合う暖かい雰囲気がいつも印象的ですね。島民も自衛隊員に負けず劣らずの強さを発揮し、最近の大会では父島島民が続けて優勝しています。今年は誰が勝つのか、楽しみです。



・古き良きものを継承し、咀嚼し、更新する

紆余曲折を経て、東京から1000kmの孤島に移住することになったスフォルツァさんとフリーペーパーを結んだものは何なのか。生き方に迷っていたスフォルツァさんが何故メディアを作ったのか、伺いました。

松江:そもそもフリーペーパーを作り始めたきっかけは?

スフォルツァ:島に来て、この島の中で何かを見つけたいなと思っていました。自分自身の問題としても。そんな中で、第一号にも載っている『グリーンペペ』っていうお店に行った時にそのお店のマスターが40年以上も前に仲間と一緒に今でいうローカルメディアを発行していたというのを知って、それを見た時に「あ、これだ!」って思いましたね。それは、自分たちが言いたいことや興味のあることをただ書き連ねて発行していたものなのですが、自分もこういうことがやりたいなーっていうのは以前からぼんやりと思っていたので、最初はもうこれを手本に、島民の声をかき集めてそれを発行するというところから企画を始めました。

松江:その40年前に発行されていたというのが『スコール』なんですけど、これめちゃくちゃすごいですよね!!ORBの紙面上で解読できる部分は読みましたけど、現代にも通じる内容が書かれていたり現代社会を示唆しているように読み取れる部分などもあって。便利になったとはいえ、人間は欲深いので結局同じ悩みを抱えてるなーって(笑)。
でこれ、紙媒体だからこそ今こうやって読むことができていると思うんですよね、もちろん当時はインターネットなかったので選択肢としてないわけですけど、現代に置き換えてもそう思います。

スフォルツァ:そうですね。自分も読んだ時に同じようなことを感じましたね「今と言ってること同じじゃん」って(笑)。

松江:原本は『グリーンぺぺ』のマスターが今でもお持ちになられているのですか?

スフォルツァ:はい。これは絶対記録しなきゃいけないなということで、データに起こして書籍という形にできたらいいなとは思っています。

『ORB』の原点となった『スコール』掲載ページ


松江:好きなフリーペーパーとか影響受けたフリーペーパーとかありますか?

スフォルツァ:『88』っていうフリーペーパーですね。フリーペーパーを企画する前にたまたま島の知り合いにもらいました。初めてちゃんとフリーペーパーというものに目を通し、自分のフリーペーパーの《あるべき感じ》みたいなイメージのベースになったと思います。紙質や大きさがフリーの雑誌であるという感覚に当てはまっていて、それでも中身の作りはしっかりしていてデザインがかっこいい。フリーであるという感覚を大事に表現しつつ、このように質の高いものがあるんだと感激しました。
その後、フリーペーパーを作ろうと決めたとき真っ先に思い浮かんだのが『88』でした。雑誌の形や紙を選ぶのに参考にしようと思い、いろいろ調べました。ただ、島にいながらだと実際に印刷屋に足を運んで紙質を確かめたりもできないので、すみませんと思いながら同じ印刷会社様に問い合わせて、最終的に同じ紙と判型がいいと思い、依頼しました。そして仕上がりを手に取ったとき、正解だったと思いました。自然との暮らしを大事にしようとしている小笠原諸島のフリーペーパーの感覚としてピッタリだなと。なので『88』には非常に感謝しています。

フリーペーパー『88』(奥)と『88』の元編集長菊地さんが現在発行している『DEAL』(手前)


・『ORB』が見据える先

作りたいものを作るということは大切なことであるが、読者をしっかり想定することもやはり大切であります。このフリーペーパーが小笠原やその島民にとってどのように解釈され、またそれはどのような役割を果たしていくのか。

松江:『ORB』という冊子はそもそも島民の方々に向けられているメディアなのですか?

スフォルツァ:まずは島民が楽しんで読めるものであることが『ORB』の基本的な姿勢です。しかしそれは同時に小笠原には住んでいないけど小笠原のことが好き、または惹かれているという人たちにとっても興味深い内容になっていると思います。小笠原の観光情報は近年増えましたが、小笠原の人やライフスタイルについて伺えるものはありません。『ORB』はそのような小笠原の本質的な部分を島民の目を通して写す役割を持っています。ORB(球体)の名前も、小笠原の核心的なものを覗ける《目》という意味があります。そういう小笠原の島と人の人生みたいなものを覗くことによって、小笠原の知らなかった側面に気づき、旅しにいってみよう、もしくは移住してみようと感じてもらえたら最高です。
また、日本語と英語が使用されている理由は、小笠原の言葉は元々英語と日本語の両方であったという文化を示したいからです。今でも欧米系の子孫の島民で、英語の方が楽という人達はいます。本当の意味で、小笠原の島民全員が楽しめるには英語も重要なのです。

松江:では、島民の方だけではなく外に向かって小笠原をPRしていくという側面も含んでいるのですね。

スフォルツァ:はい。自分が知っている小笠原っていうところはこんなに面白いところなんだよ!っていう。島民だってそれぞれで住んでいるところも違えば、している仕事も違うし、同じものを見ても感じることは違う。個々それぞれに『小笠原の世界』があると思うんですよね。だから、『ORB』は自分の目から見た小笠原の世界なんです。

松江:編集者の主観がふんだんに入っていることは重要だと思いますね。その辺りが『ORB』の面白さに繋がっているのだと思います。

スフォルザ:ありがとうございます。

松江:『ORB』を読んだ小笠原の人たちからの反応はいかがですか?

スフォルツァ:ポジティブな意見が多かったですね。 雑誌の手触りがすごく小笠原のイメージに合っているとか、デザインの雰囲気が好きなど、多くの人にすごく喜んでもらえました。第一号を見て広告を載せたい!と言ってくれた人も多かったです。その中でも一番良く言われたのが島への愛が伝わったという声だと思います。小笠原の島民は皆、島に対する愛が非常に強いので、そのように言ってもらえるのが一番の褒め言葉ですね。ORBは島民の人に一番楽しんで欲しいと思っていたので、素直にうれしかったです。

松江:今後のビジョンについてお伺いします。第二号の紙面のpatagoniaとの交流プロジェクトのように、外との交流も積極的に行いたいとお考えですか?

スフォルツァ:興味はすごくあります。小笠原は来年返還50周年で一つ節目の年になります。もしかしたらこれから色々変化していく時期なのかもしれないと思っていて、将来の小笠原がどうなっていくのか、まずは自分たちがしっかりとしたビジョンを持つことがすごく大事なのではないかと思っています。外との交流からいいアイディアをもらったり刺激を受けたりすることはそのビジョンを形成していく上でとても重要なことだと思っています。

松江:ありがとうございました。最後に【スフォルツァ流小笠原諸島の通な楽しみ方】をご教授いただけますでしょうか?

スフォルツァ:小笠原まで来たら時間を気にせずにゆっくり楽しむのが通な島の楽しみ方だと思います。ドルフィンスイムやカヤック、森歩きなどのアクティビティーも間違いなくおすすめですが、その日の天気や気分によって自由に過ごすのが自然相手に楽しむコツかもしれません。例えば、

・飲み物、ご飯、本を持って小港海岸で一日まったりしたり泳いだりする。
・海がベタ凪ならSUP(スタンドアップパドル)で海遊散歩。
・USKコーヒーで100%ボニンアイランドコーヒーを飲み、カフェすぐ横のコーヒー畑の風景を楽しむ。
・自分の好きな夕日スポットを見つける(一年中見える場所もあれば、季節毎にしか見えない場所もあります)
・母島に行く(母島は父島からさらに2時間程の船旅なので、母島まで行く人は間違いなく通と言えます)
・ジョンビーチへのハイキング。片道2時間半ほどかかるが、素晴らしい父島の南側の風景が360度広がる。
暑い季節には水着とシュノーケルを持ってゴールのジョンビーチの青い海で泳ぐ。水2リットルは必ず忘れないように。
・奥村地区にあるバー・ヤンキータウンで酒を飲みながらオーナーのランスから島の昔話を聞く。

具体的な場所で言いますと、小港海岸(島では数少ない砂のビーチ)、ジニービーチ(カヤックやSUP等でしか行けない、別次元のビーチ)、アカガシラカラスバト・サンクチュアリー(絶滅危惧種のハトを守り、島固有の植物が多く見れる自然保護区域)、ウェザーステーション(太平洋に沈む夕日が見れる展望台)

などはいかがでしょうか?



東洋のガラパゴスと呼ばれる絶海の孤島で発行されるZINEは、島の歴史・文化がそうであったように、西洋と東洋の交配によって生み出されたハイブリッドマガジンでありました。それは、発行人すなわちハーフであるスフォルツァさんご自身であるかのようでもありました。お話を伺う中で徐々に見えてきた姿、そしてそれと逆行するかのようにやっぱり現地に行って、見て、感じないとわからないぞという謎は同時に色濃くなっていきました。つまりまんまと虜になったわけであります。
おすすめはやはり夏(だそうです)!今年はもう終わってしまいそうですが、日本返還50周年である2018年の夏、小笠原諸島でお会いしましょう!!

《おまけ》
「あまり(数が)ないんですよ、、」と言いつつおすすめの食べ物を5つも挙げてくださったスフォルツァさんですが、おすすめのお食事処も5つ挙げてくださいました!なんてサービス精神旺盛なんだ、、、!!Thank you for your hospitality!!You are the man!!

【父島のおすすめごはん処5選】
茶里亭(チャーリーブラウン)
島の食材を提供してくれる人気のお店。2店舗体制で、居酒屋気分なら茶里亭、洋食系の料理ならチャーリーブラウンへ!

グリーンペペ
おそらく父島で最も古いレストランで、ORBの原点です

ボニーナ
港のすぐ近く、おしゃれな雰囲気のレストラン。お酒の種類も豊富で、個人的おすすめはランチのポキ丼

ラドフォード
島のサーフレジェンドが作るおいしい島料理が堪能でき、カラオケも楽しめる南国のレストラン

あめのひ食堂
船が着いてすぐにうまいランチが食べたいならココ!


interview・text 松江(ONLY FREE PAPER)
photo 野村(ONLY FREE PAPER)


2017-09-12 | Posted in OFP STAFF, インタビューNo Comments » 

 

インタビュー #7「ゾンビ道場」



『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』が公開されてから早半世紀近く経た2017年、ゾンビは市民権を得、カルチャーのひとジャンルを担い、どこかチャーミングな印象を持ち得るに至っています。
しかし、幼少期に何度も戦慄させられた『バタリアン』の強烈な恐怖よろしく、モンスターである本来の不気味さは未だ健在です。
そしてそんな多様化する【ゾンビ】はフリーペーパー界にも進出しています。
ファンシーで親しみやすく“子供ホイホイ”なイラストとは裏腹に「精神病クリエイター生存の記録」「メメントもらない」「主治医からの発言『一生治りません』」など、不安な気持ちを掻き立てる文字列が愛らしいイラストにそっと華を添える手書きの冊子。
表紙をちらと見る限りでもただ事ではないことを訴えかけるフリーペーパー『ゾンビ道場』。色々気になるので、発行者のTokinさんにお話を伺ってきました。

『ゾンビ道場』

双極性障害と解離性同一性障害を患うイラストレーターTokinさんが発行するフリーペーパー。内容は主に精神障害と暮らす日々の記録。月刊から始まり現在は不定期(年3-4)発行で第21号まで発行されている。
http://tokin.info




・心の病気について

フリーペーパーの大きなテーマとなっている精神病。Tokinさんは双極性障害(躁うつ病)と解離性同一性障害(多重人格障害)を患っていらっしゃるが、そもそもの始まりや自覚していく過程について伺いました。

松江:このフリーペーパーのキャッチにもなっていますが、双極性障害や解離性同一性障害について『もしかして自分はそうかも?』って思うきっかけは何かあったのですか?

Tokin:高校生の時にある日突然学校に行けなくなって、それが何なのかわからなかったんですが。あ!もうだめだって思ったんですよね(笑)。パニックというかすごい貧血のような感じになって、その日は家に帰ったんですが帰った時には単純に体調が悪いというわけじゃないというのが自分でわかったんですよね。親は「内科じゃなくて?」みたいな感じでしたけど、それはもう違うって自分でわかってたので。そこから精神科通いが始まりましたね。

松江:へえー。でもなかなかそっち(精神科の領域)に思考が行き着く人ってそんなにいないようにも思います。思ったとしてもなかなか行動に移せないと思ってしまうのですが。

Tokin:そこに至るまでに小さな体調不良みたいなものがずっとあって、、、。頭痛いから内科とかお腹痛いから胃腸の専門の方とかその都度診察してもらっていたのですがどこで診てもらっても具体的に悪いところがなくて。それでもやっぱり体調は悪いし、なんだろうなーとモヤモヤしていたんです。そんな中で先ほど話したパニックみたいなものがやってきた時に今回のやつはいつものとはヤバさが違うぞと思って。ああ、、、これは、、、(精神科の領域だ)と思いました。

松江:では、小学生や中学生の時は特に目立った不調はなかったのですか?

Tokin:そうですね。特になかったですね。でも、解離性同一性障害というのはすごく強いストレスがあったとか何かきっかけがあって発症するものなのですが、小学生の時にあまり人間関係がうまくいっていなかったのでもしかしたら(解離性同一性障害の発症の原因は)それなんじゃないかとは思っています。

松江:最初は双極性障害や解離性同一性障害について特に知識もなく診察に行かれたと思うのですが、初診の段階でパッと診断されるものなのですか?

Tokin:それが全然そんなことはなくて、きちんと病名を診断されるまで約10年かかりました(笑)。

松江:ええ!??10年ですか???

Tokin:初めて行った時は高校生の時だったんですが、思春期の患者さんには簡単に病名を告げないというのがそこの先生の方針だったみたいで。思春期というのはただでさえ揺れやすい時期なので。そこからしばらくは聞いても曖昧な感じで、、、『病名を告げることはそんなに重要なことではない』とか、、、それで通い始めてなんやかんやで7-8年経った頃に友達に別のカウンセリングルームを紹介してもらったんです。そこで話をしてみると「解離性障害って言われたことあります?」って初めて言われて。そのことをずっと通っていた方の先生に言ったら「町のクリニックであるうちじゃ診れない」って言われて違う病院を紹介されました。その転院先で初めて正式に解離性同一性障害と診断されました。その後色々薬の処方してもらったりしている過程で双極性障害であることもわかって。その段階でやっと大元の原因が明るみに出てきたわけです。

松江:むむむ。。これはなかなか根深そうな問題ですね。。。

Tokin:よくわからないまま時だけが進んでいくのはとても大変でしたし、原因がないのに不調を訴えるのは自分が悪いと思っちゃったんですよね。私の根性が足りないんだと。それで試行錯誤してメンタルトレーニングや宗教についての本を読んだり、偉人の名言集みたいなものを読んだり、あと食事療法とか。色々自分なりに工夫してやっていました。

松江:そういうものが結果的にどんどん精神的には悪い方に行ってしまったということですよね?

Tokin:そうですね(笑)。

松江:精神科だけに限ったことではないですが、診断までに時間がかかってしまう問題はどうしたらいいんでしょうかねー。結局いい先生に出会える確率の問題になってしまうんですかね、、、。

Tokin:そうですね、、、あとはやっぱりセカンドオピニオン大事だと思いますね。いっぱい薬出しとけばいいみたいな先生もいるので。

松江:難しい問題ですね。。。あ、すいません、、ちょっと問題提議が逸れてしまいました。。。

Tokin:やはり、目に見えて何が悪いってわかるわけじゃないのが難しいですよね。

松江:だからこそ、Tokinさんのように当事者が発信するリアルなメディアはすごく貴重だと思いますし、ナーバスな問題を発信するのはものすごく体力を使うことだと思うので本当にすごいと思います。めちゃめちゃ体張ってますもんね(笑)。



・フリーペーパーという紙メディアを使って発信していくということ

精神的にタフな状況に置かれたTokinさんが自らを発信していくこと。その一つとしてフリーペーパーというメディアを選択したことについて伺いました。

松江:そもそも何故ゾンビ道場を発行しようと思ったのですか?また、何故フリーペーパーだったのでしょうか?

Tokin:入退院を繰り返している時期だったんですが、退院した時にやることがなくて(笑)。以前からフリーランスで絵の仕事をちょこちょこさせていただいていたのですが、症状の方が制御しきれないくらいになってしまって。仕事に関しては、迷惑かけちゃいけないからっていうのがあって隠してやっていたのですが、このまま隠してやっていくのは無理だというところまで来てしまって、、、。仕事はできる状態ではなかったんですが、絵は描きたいというのがあって、暇だということでフリーペーパーを書き始めました。フリーペーパーであれば出さなきゃいけないという使命感もないし、のびのび出来そうだし、リハビリにもちょうどいいかなと思って。

松江:フリーペーパーというとクーポン誌や求人誌のようなものがパブリックイメージとしてあったと思うのですが、最初から現在発行されているような手書きの形式は想像できたのでしょうか?何か参考にされたフリーペーパーなどあったのでしょうか?

Tokin:私が高校生くらいの時に手書きのフリーペーパーを作っている人がちょくちょくいたんですよ。吉祥寺の雑貨屋さんや本屋さんに結構そういうフリーペーパー置いてありましたよね。その時のことを思い出してノリで作りました。その後ONLY FREE PAPERに持って行った時にホットペッパーみたいなものがフリーペーパーって呼ばれていることを知りました。

松江:逆に!?

Tokin:逆に(笑)。

松江:そもそも自身の経験や思いを発信することに抵抗はなかったのですか?

Tokin:壊したらまずいような仕事上の人間関係もなくなってしまったので。そして、見栄を張るより弱みを見せてしまった方が仲良くなれると思っているので発信することに抵抗はありませんでしたね。あ、あと、、そうだ!

松江:はい?(笑)

Tokin:フリーペーパー作るモチベーションとして、暇だとか単純に作ってみたかったとか色々ありましたが、一番は実験をしたかったんです。

松江:実験??

Tokin:入院先で知り合う友達とか同じような境遇の人が『わかってもらえない』という事をすごく言っていたんですよ。健康な人から見ると何か特別でとても理解しがたいものとしてみられると。でもその時私は『わかってもらえない』という言葉にすごく違和感があったんです。私は今まで自分の病気について(誰かに)わかってもらおうと思ったことがあっただろうか?と。あまりなかったんです。だからわかってもらおうと何か働きかけをしたことももちろんありませんでした。その時に『ああ、じゃあ私がやればいいんだ』って思ったんです。何かアクションを起こせばわかってもらえるかもしれないし、「わかってもらえたよ!」って同じ病気の人に言ったら少しは安心してもらえるかもしれないじゃないですか。その反応を試す実験をしようと思って。それで最初に使ったのがフリーペーパーだったんです。だからなるべく多くの人に届くように病院とかではなく町の本屋さんや雑貨屋さんに置いてみようと思いました。

松江:Tokinさんはイラストを描けるわけですが、そのことは紙媒体を作るモチベーションの手助けになりましたか?

Tokin:自分で話すとか、直接的な方法で発信していくのは無理だと思いましたが、何か書いたものを渡すことならできると思いました。あと絵を描くことが単純に楽しいんです。


Tokinさんの水彩画作品(http://tokin.infoportfolio』より)



・イラストレーターTokin

絵を描く事を生業としているTokinさん。絵を描く事を職業とするようになったきっかけや、そもそもTokinさんにとって絵を描く事というのは一体なんなのか?

松江:そもそも小さい頃からイラストレーターになりたいと思っていたのですか?

Tokin:はい、そうですね。

松江:絵はいつ頃から描いていたのですか?

Tokin:小さい頃からすでに描いていましたね。美大に進学したくて、中高一貫で芸術コースがある学校に入ったのでその時にはすでにイラストを描く仕事に就きたいと思っていましたね。でもその高校を辞めてしまったので人生設計がぐちゃぐちゃになっちゃったんですけど(笑)。それでも絵を描きたいというのはずっとあって。絵の仕事はいつだったか、、、学校辞めて割と早い段階でやっていたんですよねー。知り合いのイベントのチラシを描いたりだとか、ちょこちょこですけど。

松江:え?それは仕事としてですか?

Tokin:はい。

松江:どういう経緯でそうなったんですか?好きな事を【仕事にする】っていうのはそこに一つハードルがあると思うのですが。

Tokin:仕事にすると言っても職業として成り立つほどではなかったですけど、最初は知り合い伝いに仕事をもらったり。あと親戚がアパレル関係の仕事をしていて、そこから仕事をもらっていましたね。今度何たらフェアがあるから絵描いてーとか、カバンに絵を描くみたいなことは高校生の時からやっていましたね。そもそも仕事として絵を描くっていうビジョンが最初からあったんですよね。好きだから絵を描くっていう意識は最初からなかったんですね。描くのであればお金はもらうし、もらうならもらえるだけのものを描くという。

松江:ここの部分というかタイミングというか、多くのフリーランスのクリエイターさんにはとってとても興味深い話だと思うんですよね。

Tokin:私、ホームページを作っていたんですよ中学生の時から。ホームページビルダーみたいなやつを使って。それがポートフォリオだったんですけど、友達や親戚がそれを面白がってみてくれていたんです。それが大きかったのかもですね。

松江:(SNSが主流になり、個人で色々発信できる)今それを真似しても全然でしょうけど、当時は丁度良い具合だったんでしょうね。

Tokin:そうですね、作品を書いて載せている人自体がそんなに多くなかったし、中学生が自分のホームページを作っているというのも当時は面白かったんでしょうね。

松江:絵を描くということは小さい頃から体に染み付いていたんですね。

Tokin:ですね。あと、絵を仕事にするということについては高校辞めちゃったことも大きかったんです。美大に行くルートが一旦そこで途絶えてしまったんです。受験する根性とかないしできるとも思えなかったのでもう自分でやるしかないと。

松江:へえー!!20歳前後でその覚悟を持てるってすごいですよね。その年齢ならもっと他に易しい選択肢はあったはずですし、そもそもその時すでに精神の健康は思わしくなかったわけですよね?

Tokin:親にも特にプレッシャーをかけられるとかなくて、ただ私の中で悔しさがあって。周りの人はみんな大学行って就職してというルートを辿れるのに私は辿れないという。その悔しさを解消するには、絵が上手くなってそれを人が見てくれてそれで仕事してというルートを行くしかないというかそう思い込んでいて。そう考えていかないと精神がもたなくて。アイデンティティがなかったんです。学生じゃないし、外でバイトできるメンタルでもなかったし、でも自分が何者でもないのが嫌だったから【絵を描く人】っていうアイデンティティが必要だったんですよ。肩書き欲しかったですねー(笑)。

松江:強いですねー!誰に何言われるわけでもない環境の中で、それだけ自分を奮い立たせるっていうのは本当にすごいことだと思います。

絵を描くことはTokinさんがTokinさんであるために必要不可欠であり、それはもはや身体の一部であるかの如く。
では、絵を描くこと・ゾンビ道場を書くことは心理的な部分と影響しあっているのか伺ってみました。


松江:精神的にネガティブな部分であったり危うい部分があるから絵が描けるってことありますか?

Tokin:よく聞く話ですけど、こじつけですよね(笑)。だってそうでも言わないと報われないじゃないですか。

松江:ゾンビ道場でいうとvol.8くらいまで結構荒れてたじゃないですか(笑)。そこからベクトルがちょっとずつ変わって言った気がするんですよね。それに伴い発行頻度も少なくなったので『あ、精神的に落ち着いてきたのかな?』って。

Tokin:そうですね。わかってもらえるかどうかの実験として始めたんですが、vol.5くらいの段階で割と達成されちゃったんですよね。結構みんな読んでくれたり聞いてくれたりして(笑)。その時点でイライラする必要がなくなって、そうなったらこれはもう作らなくていいんだろうと思ってたんですが単純に作ることが楽しくなっちゃって。あと、何か大変なことがあっても(ゾンビ道場に)書いちゃうとスカッとするっていうのがあって。なんかやめる理由もないしもっと書こうってなりました。

松江:同じタイトルとはいえ、あ!“月刊”は取れましたけど(笑)、作っているモチベーションは変化しているということですね?

Tokin:はい。でも言いたいことは一貫していて、まずこういう人がいますよーこういう病気がありますよーってことが一つ。そして、それでも何とかやっているというか、(そういう人たちが)毎日常に絶望し、塞ぎ込んでいるわけではないということですね。『克服してハッピー!』ということではなく、ハッピーとは言い切れないけどまあ悪くはないよねっていう日常が発信されているっていうのは意味があるんじゃないかとは思っています。

松江:ズバリ、Tokinさんにとって絵を描くことは精神的な部分とつながっていますか?

Tokin:んー。実感としては良い時も悪い時も描けるって感じですかね。嬉しかったら嬉しい絵を描けばいいし、辛かったら辛い絵を描けばいい。そして、その絵がある程度のクオリティに達していればレスポンスがもらえるんですよね。それが辛い絵だったとしても。レスポンスがもらえれば寂しくならないですし。

松江:ゾンビ道場についてはどうですか?

Tokin:自分のマイナスな部分を書いてみると自然と解決策を考えるようになり、問題点を改善しようという主体的な意思が出てきたような気がします。
以前は自分の欠点に気付くと、それだけで気が重くなっていたので、、、。あと、何より、絵や言葉や漫画を描くことにめちゃくちゃ自信が付きました。



笑っていいのか戸惑うが、クスッと笑えるのもゾンビ道場


・ゾンビ道場発行後の反響

精神病についての周知実験として始まったゾンビ道場発行はその後思わぬ反応をもたらした?
そしてTokinさんの現状や今後についても伺いました。


松江:先ほどvol.5くらいである程度の達成感を得たとおっしゃっていましたが、発行後すぐにリアクションはありましたか?

Tokin:それがあったんですよ。vol.3くらいの段階で結構。躁状態の時に自己顕示欲が爆発するのでめちゃめちゃ宣伝しまくっていたんですよ(笑)、「作ったよー!」「出したよー!」「配ったよー!」って。ブログ・ツイッター・手渡し、ガンガンいってましたね。初めて行くお店とかでも図々しく置かせてもらったり(笑)。

松江:やはりそれ(リアクションがあったこと)は大きかったですか?

Tokin:手応えありましたね。実験に対するアンサーが得られるのは単純に楽しかったですし「おっしゃー!」ってなりましたね。

松江:ですよねー。

Tokin:そもそもが反応ありきだったので。とてもモチベーションになりました。

松江:どんな反応がありましたか?

Tokin:色々な反応ありましたけど、概ね好意的な反応でしたね。あと、見せた時にカミングアウトしてくるパターンも多かったですね、実は私もそうなんですって。

松江:発行した当初、そのような反応は予想していましたか?

Tokin:いやー全くですね。もっと見世物的なものになるかなと思っていたので、あまり心温まるようなものは想像していなかったですね。

松江:色々な反応がある中でゾンビ道場は約5年、現在21号まで発行されていて、ご自身の活動も活発になられ、新聞やテレビなんかのメディアにも出られている現状や環境の変化をどう感じていらっしゃいますか?

Tokin:うーん。なんでしょう。でもやっぱり言えるようになってよかったなっていうのはありますね、隠していることがすごく辛かったので。風邪じゃないのに風邪って嘘ついたりするとその後会った時に「この前の風邪大丈夫?」みたいに言われるとそれについてまた嘘をつかなきゃいけないじゃないですか。嘘の連鎖というか。。。そういうものに対して「今日(精神的に)体調悪くなっちゃって行けなくなった」と言えるようになって気が楽になりましたね。

松江:今後の希望とか目標って具体的にありますか?

Toin:ゾンビ道場を読んだり私が発信することで(病気ことを)言えるようになる人が増えたらいいなと思いますし、言える社会になればいいと思いますし、そのために私は言っていこうと思ってます。

松江:ちなみに過去のゾンビ道場のバックナンバーをご自身で読み返して感じることありますか?

Tokin:自分は不真面目だといつも思っているんですが、紙面をみるといつも必死なので『私って真面目じゃん、、』と安心します。と同時に『心配しすぎるから心配になるんじゃないか?』いう気もしますが、たぶん性格なので仕方ないです。
vol.1-6くらいについては、状態が不安定でかなり家族に迷惑をかけていたので、ひたすら『皆さんごめんなさい』という感じです。それから、イラストのスキルが上がってるのが目に見えるのが嬉しいです!

松江:具体的な目標といえば、ゾンビ道場に「本出したい!」って書いてありましたね(笑)。

Tokin:本出したいです!!!あとは、やっぱりフリーペーパーだと【広域に】という意味ではなかなか届かない範囲もあるので何か大きい媒体に定期的に書くとかもやりたいですね。

松江:活動の幅を広げたいということですね。

Tokin:ゾンビ道場で直接的に書いていることをもう少しマイルドな表現にしているものが自分の絵だと思っていて、そういう私が作るもの何でもいいのですが、それを見て『辛いことを言ってみよう』とか『(病気の人の)言っていることを受け入れてみよう』とか、当事者の人もその周りにいる人も何かを感じてもらえたら嬉しいし、そういう空気を作り出せる土台になれればいいなと思っています。なんか壮大な目標ですけど(笑)。

松江:でも、そういう意味ではすでに幾分か達成されていますよね(笑)。

Tokin:読んでくれる人がいるおかげです。

松江:本出しましょ!!



・ゾンビ道場の由来

松江:今更ですが、改めて、ゾンビ道場の由来は?

Tokin:ああ(笑)

松江:絶妙なタイトルだと思うんですよね、ポップで親しみ易いんだけどやっぱり少し不気味で、、、。塩梅が最高です。

Tokin:【ゾンビ】については、入退院を繰り返したり躁鬱を繰り返したりで、死んでいるようで生きている生きているようで死んでいる状態がまさにゾンビだなと。【道場】については、それを繰り返していく鍛錬の場のようなイメージです。多くの人がそこで己を鍛え上げているという。だから一人ではないんですよね。

松江:あーなるほど!そんな意味もあったんですね!!

Tokin:後付けですけどね(笑)

松江:おおっ!すごい!今日お話伺った中で出てきた【受け皿になりたい】という部分と【道場】という部分が繋がって綺麗に収まりました!!ありがとうございます!!


発行当初から当店ONLY FREE PAPERではお取り扱いさせていただいておりますゾンビ道場は、発行の度にご本人に直接お持ちこみいただいておりました。
一筋縄ではいかない病気を抱えながら、それでも前に向かって進んでいく力強さを当初から感じていましたし、それは時には鬼気迫るものもありました。今回初めてじっくりお話を伺うことで、その理由が少しわかったような気がしました。とても大切な言葉も伺うことができしましたし、病気の方もそうでない方もそれぞれに悩みを抱えながらも理解しあって生きていくことの意味を今一度考えてみたいと思いました。

なお、9月17日から30日の約2週間、ONLY FREE PAPERヒガコプレイス店にてTokinさんの個展が行われます。
詳細はこちら。ぜひ遊びにいらしてください!


interview・text・photo 松江(ONLY FREE PAPER)


2017-08-23 | Posted in OFP STAFF, インタビューNo Comments » 

 

インタビュー #6 「 BLUE+GREEN JOURNAL 」


 深い緑や生き物の息づかいを感じる印象的なイラストが全面に配されたタブロイド判の大きな表紙と、そこに印刷された「奥多摩町公式」という意外な文字。ヒガコプレイスからは電車で1時間半、東京の奥座敷とも言われるこれまでの奥多摩のイメージを覆すような大判のフリーペーパー『BLUE+GREEN JOURNAL』を作るお二人に会いに奥多摩へ行ってきました。
 編集と制作は株式会社ミゲルの宇都宮浩さん、曽田夕紀子さんご夫妻。都心から奥多摩町に移住したお二人に、ジャーナルのこと、奥多摩での暮らしのこと、移住のことなど、いろいろ伺いました!

『BLUE+GREEN JOURNAL』

印象的な写真やイラストを軸に、ガイドブックでは伝えられない奥多摩町の奥深き魅力を発信する、奥多摩町公式の無料タブロイド。2016年創刊。
https://ja-jp.facebook.com/bluegreenjournal/



●都心から奥多摩へ

野村:まずは、都会暮らしだったお二人が奥多摩に移住することになった経緯を教えてください。

曽田:もともと私は田舎暮らしがしたいと思っていたんです。彼は全然そんな気がなかったんですけど、奥多摩に遊びに行くようになって、ここだったら現実的に都心で仕事をしつつ暮らすというのができるなと。それでゆるく物件を探すようになって、探し始めて2年目くらいにこの家を見つけました。

宇都宮:僕は大都会が好きで、最初はあんまり乗り気じゃなかったんですけど、一緒に遊びに来ているうちにだんだんその気になってきて。とにかく川で普通に泳げることに感動してしまったんです。川遊びって子どもの頃からあんまりやったことがなかったので。あとは、二人ともダイビングの雑誌の編集部にずっといたりして海のカルチャーは何年も見てきたんですけど、山はまた雰囲気が全然違って静かで。そういう魅力もありましたね。

野村:現在はこちらのご自宅でお仕事をするスタイルですか?

宇都宮:家でももちろん仕事をするんですけど、お茶の水に事務所があって、週に2,3回はそちらに行きます。

奥多摩のご自宅に住む猫たち。奥は都心時代からの同居猫「モス」、手前が最近仲間入りしたという「さとる」。



●町のオフィシャル媒体でやりたいことをやる

野村:2015年に奥多摩に移住し1年経たないうちに『BLUE+GREEN JOURNAL』を創刊していますが、移住前から準備していたのですか?

曽田:そもそもこういう仕事をしているし奥多摩は魅力的なところだから、紙で何か媒体を作りたいねという話はしていたんです。で、奥多摩町は各家にスピーカーがついていて毎日町内放送が流れるんですけど、私がたまたま家にいたときにその町内放送で「町のためになる計画募集」というのが流れたんです。町のためになる企画に対して町が支援をするという<元気なまちづくり推進事業>というもので、それがたまたま「明日閉め切りです」っていう放送だったので、急いで調べて資料を作って提出して、その一週間後くらいにプレゼンに行きました。

宇都宮:会社として普段は雑誌や書籍の仕事をやっているんですけど、受注の仕事をとにかく忙しくやって経験も積んできて、誰にも束縛されないで自分たちが良いと思うような媒体を作りたい、紙で作りたい、という気持ちが二人とも高まっていたんです。その<元気なまちづくり推進事業>の話を聞いたのがそういうタイミングでしたね。

野村:町の事業ということですが、例えば媒体をフリーにするとか、内容に町の意向はどれくらい汲み入れていますか?

曽田:コンセプトとして、奥多摩の魅力をガイドブックではないかたちで発信しながら、最終的にはこれを見て移住者が増えたら良いねというのはあるのですが、具体的な内容についてはほとんど好きにやっています。無料配布というのも、多くの人に手に取ってもらえるということで、フリーペーパーとして発行したいという提案をこちらからしました。

宇都宮:役場で人を紹介してもらったり、最終段階で内容の確認はしてもらっていますが、ほとんど直しというのはないですね。


野村:地元の人の反応はどうですか?役場や町の主要なところにはだいたい置かれているとのことですが。

宇都宮:イラストが面白いとか、すごいいいね、という声は予想以上にもらっていますね。町のオフィシャルマガジンということで役場が駅やバス停に置いてくれたり、あとは観光案内所や飲食店などにも置かれています。そのルートは最初からできていて、それプラス僕らが知り合いに紹介してもらったアウトドアショップとかカフェとか、そういうところに置いているので、配布ルートはけっこう恵まれているんです。

曽田:回覧板でも回してくれていて、奥多摩の人はみんな知ってくれてはいます。

野村:回覧板!創刊から一年くらいでほぼ100%の認知率ということですね。

曽田:人数が少ないから。5000人くらいかな…。

宇都宮:あとは地元の反応だと、文字が読み辛いとかも言われたりはするんですけど、この媒体は受注の仕事ではなく完全に自分たちが中心で作っているので、僕らの中での正解みたいなものをかなり気に入ったかたちでアウトプットできているんです。例えば文字が読み辛いということについては、レイアウトや写真、イラストがいい感じであれば、時には文字の視認性を犠牲にしてもいいじゃん、と思ってます。大きな紙で写真を捲って、ああなんかよさそうね、みたいなかんじでも、それはタブロイドとして機能している。そもそも雑誌やタブロイドって、「見てて楽しい」とか「なんかすげえ!」とか、そういう感覚的な面白さがないとつまらないと思っているんですけど、いまの本屋さんに売っている雑誌からそういう面白さがどんどんなくなっていると僕らは感じていて、『BLUE+GREEN JOURNAL』は、全部が読みやすくとか写真がはっきり分かるように、とかじゃなくてできるだけ思い切ってやる場にしたいというのがあったんです。

曽田:フリーペーパーとかインディーズ系の雑誌は面白いものがあるじゃないですか。それはやっぱり、編集長だったりアートディレクターだったり、強い思いを持った人の世界で作ってるものがやっぱり面白いからで、雑誌ってそういうものだと思うし、自分たちもそういうものを作りたいなと思いますね。

野村:お二人の好きなフリーペーパーはありますか?

宇都宮:OFPで見たものだと『ヘルス・グラフィックマガジン』とか、あとはスノーボードの『DEZZERT magazine』。あれは既存の出版社でやろうとすると、文字入れろよとか情報入れなきゃとなってきちゃうと思うんですけど、あの人たちは「とにかくかっこいいビジュアル載せたいでしょ」っていう、ぶっ飛んだ感じがすごい面白いなと。作り手の傲慢さみたいなものを隠さないというか、そういうものを読者としても期待しているし、作るとしたらそういうものを作りたいですね。




●生き物との距離感が変わった奥多摩暮らし

野村:ここからは「移住」について教えてください。それまでの生活の場であった都心と奥多摩とでは環境がガラッと変ったと思いますが、どんな生活の変化がありましたか?

曽田:家が広くて手の入れがいがあるので、家のことをやる時間が増えましたね。畑をちょっとやったりとか味噌作ったりとか、日々の生活することをもっと楽しむということをやっていきたいなという気持ちになりましたね。

宇都宮:奥多摩の前は浅草に住んでいたんですけど、その頃はほぼ100%外食だったんです。今は7,8割自炊かな。僕はやんないんですけど…。

曽田:まあ、物理的にお店が少ないんです。

宇都宮:あとは、生き物に優しくなった。

曽田:虫を殺さなくなりましたね。蛾とかもすごいいっぱいいて、最初はいちいち殺してたんだけど、もうきりがないし、この環境ではこっちがアウェイな身なのに殺生するということに抵抗が出てきて、虫を一匹殺すのにも気持ちが変わったよね。

宇都宮:めちゃくちゃ変わった。例えば、いま蟻が家の中にもすごい来るんですけど、「アリの巣コロリ」とか置いて何万匹という蟻が死ぬのはオレたちの傲慢じゃないかって話になって、わが家の蟻問題は今ちょっとそこで止まってます。
あと車で走ってて鹿に遭遇したりとか、猿やイノシシが畑を荒らしたりとか、動物の気配を身近に感じるので、対生き物ということに関してはここではすごいアウェイ感がありますね。

曽田:アウェイだね。人間が。


野村:住んでいる人の雰囲気や距離感なども都心と違いますか?

曽田:浅草は、引っ越す前は「ご近所付き合いが面倒」と聞いていたんですが、実際のところは全然付き合いがなかったんです。こっちは大家さんが野菜をくれたり、一緒にバーベキューをしたり、あとは奥多摩の移住者の仲間がどんどん増えてきました。

宇都宮:まあ、人数が少ないから自然と知り合いになる、みたいなね。やっぱりこういう場所なんで、田舎暮らしがしたいとか、静かなところで子どもを育てたいとか明確な理由があって、ちょっとしたハードルを越えながら来た人たちばっかりなんです。なので話をしてると、自分のやりたいことはやる、みたいな気質をみんなそこはかとなく持っていて、食べ物や暮らしぶりとかも、自然に選択している感じが僕らにとっては心地良いし、学ぶところがありますね。

野村:移住のデメリットは感じていますか?

曽田:デメリットが、思ったほどないんです。前は浅草で徒歩30秒でコンビニに行けるようなところに住んでいて、今は車で15分行かないとお店がないようなところだけど、そういうのも慣れちゃえば全然不便じゃないんですよね。

宇都宮:逆に東京のど真ん中で暮らしているとそっちに慣れちゃうんですけど、いま週に2,3回青山に行ったりして、そうするとオシャレだな〜と。東京の良い部分、モダンな部分とかファッショナブルなところとかを敏感に感じるようになっていますね。あとは満員の通勤電車とか、当たり前の東京だと思ってたことにすごい違和感を覚えたりとか、東京のど真ん中に対する正しい認識が再入力されるみたいな。

野村:お二人は今後もずっと奥多摩で暮らしていきますか?

曽田:奥多摩は、すごい気に入ってます。でも何がなんでもここにずっと住むぞ、という気持ちでもなく、何か機会があってほかに良いところがあったらそこに住むこともあるかなとは思うんですけど。ずっと住んでもいいなと思うくらいには気に入ってます。

宇都宮:夫婦の関係性でいうと、奥多摩移住はいいんじゃないかなと。こういうところに住んでいると協力し合わないと生きてけないんですよね。例えばうちだと、電車で出かけると駅から一人じゃ帰れないんです。迎えに来てって言わないと。そういう連携というか気遣いというか、多少なりともそういうものが必要になっていくので、家庭円満になる人が多いんじゃないかな。

移住から2年ちょっとで、奥多摩は完全にお二人の暮らしはたらくフィールドとなっているようでした。仕事の上でも生活の上でも信頼関係を深め続けるお二人を見ていると、奥多摩に移住するのもいいなあ〜などと思えてきてしまいます。

●奥多摩をさらに高いところから見る

さて、ここからは車で案内していただき、ご自宅から10分ほどの白丸湖へ。奥多摩は視界に入るのが7割がた山と空。まさにBLUE+GREEN、本当に気持ち良いのです!そんな奥多摩の景観と『BLUE+GREEN JOURNAL』でも活躍しているドローンの相性が良いということで、ドローン撮影で上空からの景色を見せていただきました。

白丸湖にて、ドローン飛んでおります。あっという間に見えなくなるまで上って行ってしまいました。



ドローンから見るとこう。



さらにもっと上へ。白丸湖付近は7割どころか9割がた緑でした。



無事に帰還したドローン



上空から見ると本当に緑の深い奥多摩。都心から1~2時間で、こんなにも“雑踏”や“騒音”とほど遠い環境に身を置けることに改めて驚かされました。

●ミゲルオススメの奥多摩ごはん処TOP5

最後に、お二人に奥多摩のオススメごはん処TOP5を伺いました。

<第一位>お食事処 ちわき
いちばんオススメは山菜の天ぷらが美味しい「そば天盆」。見落とされがちだけれど、わざわざ行く価値あり。川沿いで風情のあるお店(曽田)

<第二位>丹三郎 (たんざぶろう)
古民家をそのまま利用している、そばの店。魂のこもったそばとそばがきが非常に美味しい(宇都宮)

<第三位>蕎麦太郎カフェ
町民はワンコイン(500円)で食べられる。ここもやっぱりそばがオススメ(曽田)
店もシンプルで木の温もりがあって良い(宇都宮)

<第四位>三河屋(土蔵食亭)
宿屋として古くからやっているところで、蔵を食堂にしている。茶そばがオススメ(宇都宮)

<第五位>手打蕎麦 ごろう
御岳の駅の近くだから青梅市なんだけど、上品でつゆがとても美味しい(曽田)
そばが完売で食べられないことがあるので早めに行くといい(宇都宮)

特に指定はしなかったのですが、TOP5全てそば!というそば好きなお二人とそば事情に恵まれた奥多摩でした。また奥多摩町にはそば処だけでなく、移住を支援する魅力的な制度もたくさんありますので、自然に囲まれて人生を歩んで行きたいという方はぜひ調べてみてください!


【BLUE+GREEN JOURNAL配布場所】

●奥多摩町内および青梅市内
自治会回覧板
JR青梅線各駅(青梅~奥多摩間)
西東京バス関連
奥多摩町役場
奥多摩ビジターセンター
きこりん
水と緑のふれあい館
都民の森
奥多摩観光案内所
山のふるさと村
ビアカフェバテレ
まちづくり委員会
株式会社森と市庭
はとのす荘
釜めしなかい
鳩の巣釜めし
蕎麦太郎カフェ
御岳登山鉄道
居酒屋 ハリーズ Harry’s
リバーベース Halau
やお九 甘味とごはん処
Yoshizo
GRAVITY
RAINBOWHOUSE奥多摩
家具屋 椿堂
荒澤屋
つちのこカフェ

●東京都内
アウトドアショップA&F
金柑画廊
飲食 fatty’s
眼鏡屋 スイス堂
飲食 na-cho
美容室AGU
美容室vicca
美容室Gigi
樹のはなクリニック
アーティストエージェンシーvisiontrack
GINZA SIX
東京観光情報センター
LIVING DESIGN CENTER 「OZONE」
ONLY FREE PAPER

●東京都外
小菅の湯
奈良文化財研究所
NPOホームズビー

 
text・interview 野村(ONLY FREE PAPER)
photo 野村・松江(ONLY FREE PAPER)・ミゲル<ドローン撮影>


2017-07-30 | Posted in OFP STAFF, インタビューNo Comments » 

 

インタビュー #5 「 月刊妄想星占い」



「信じちゃ、ダメ♡」
毎月表紙のかわいい女の子がつぶやくフリーペーパー『月刊妄想星占い』。その名の通り最初から最後まで妄想だけで作られた、12星座の星占いのみのフリーペーパーです。まさに、「誰が何のためにこれを作っているんだろう…」という見本のようなフリーペーパーの作者“さとみちゃん”にお話を伺いました!

『月刊妄想星占い』

12星座の運勢を作者の妄想のみで占った(?)星占いのフリーペーパー。なぜか毎月決まって双子座はどん底、獅子座は最好調の運勢。
http://www.geocities.jp/mousouhoshi


野村:今日はよろしくお願いします。“さとみちゃん”とお呼びしてよろしいですか?いきなりですが、そちらのお顔は…。

さとみちゃん:これは、妄想です。とにかく石原さとみが好きで好きで、石原さとみになりたいんです。さとみちゃんと呼んでいただけるなんて光栄です。

野村:とにかく妄想の人なんですね。ではさっそくフリーペーパーについてお聞きしたいのですが、毎月書かさずに発行している妄想星占い、こちらを創刊したきっかけはなんだったのでしょうか?

さとみちゃん:この『妄想星占い』を作る前に『UmaGirl』というフリーペーパーを作っていたんですけど、 最初にそこで適当な星占いをやっていたんです。その時の適当な占いが割と評判が良かったというか、「面白かったよ」と言ってくれる人が多くて、『UmaGirl』をやめたあとに、じゃあそれだけのフリーペーパーにしちゃおうかなと…。

野村:占いはもともとお好きだったのですか?

さとみちゃん:はい。ファッション誌の後ろのほうに載っている占いとか、ああいうのを読むのがすごい好きだったんですよね。あと、朝の情報番組でやっている占いとか。あれは毎朝絶対見ないと不安で学校に行けなくて…。もう小学校のときから。たとえ自分の星座が運勢悪くてもだいたいアドバイス的なのがもらえるので、それに気をつけて今日一日過ごそう、みたいな。親に「早く学校行きなさい」って言われても占い見てからじゃないと登校できなかったんです。


野村:その長年の習慣がこちらの『妄想星占い』に繋がってくるんですね。妄想星占いというのはどうやって占っているんですか?そもそも、占っているんですか?

さとみちゃん:あ、適当…。完全に適当です。妄想です。

野村:毎月きっちり12星座分を占う(?)となると、妄想もなかなか大変ではないですか?

さとみちゃん:そうですね…。毎月最後の星座くらいでは飽きてきちゃってて…。

野村:え?

さとみちゃん:もう考えるのが面倒くさくなってきちゃうんです。

野村:面倒くさく…。毎月牡羊座から順番に書いているんですか?

さとみちゃん:そうです。だから魚座くらいではもう疲れちゃって…。疲れて飽きちゃう…。

野村:書く順番を変えたりしたことはありますか?

さとみちゃん:いつも何も考えずに牡羊座から書いちゃってました。そうですね、次は魚座から書いてみようかな…。


野村:毎月双子座は決まって運勢がひどいことになっていますが、これはもう妄想星占いのルール的なものなのですか?

さとみちゃん:毎月そうすると決めていたわけではないんですけど、でもなんとなくいつも良くない運勢にしちゃうんですよ…。あの、元カレが双子座だったので、それで最初は双子座をいちばん悪い運勢にしてたんですけど、それが何となく定着してきちゃったというか…。なぜか…。

野村:対して獅子座は毎月運勢絶好調ですけど、こちらは…?

さとみちゃん:私が獅子座なんです。獅子座は毎月最高の運勢にするというのは決めています。


野村:気持ち良いくらいのえこひいき感ですが、双子座の読者で怒ったりする人とかはいないんですか?

さとみちゃん:今のところは…はい、大丈夫です。割と双子座の人のほうが反応を下さるんですけど、「逆におもしろい」みたいに言ってくれる人が多くて、「ああよかった、傷ついてなくて…」と思っています。

野村:ちなみに、その元カレの反応はどうなんですか?

さとみちゃん:いや、読んでません。絶対教えられないです。元カレには、というか誰にも教えていないんです、周りの人には。今の彼にも絶対教えたくないです。教えたら書き辛くなっちゃうかなと…。というの と、たぶん単純に、教えたら引かれるんじゃないかなっていう思いがあって…。だから彼とかにも言えないんですよね。


野村:そうなんですね。周りには内緒にしてでも続けていくというくらい、フリーペーパーには魅力があるんでしょうか?

さとみちゃん:はい、フリーペーパーは好きですね。

野村:『月刊妄想星占い』は自費で作っているんですよね。誰に頼まれたわけでもなく、彼氏や友だちにも内緒で自分のお金をかけてでも作ってしまう、というのは、フリーペーパーが自分にとって必要な表現手段だったり、本来の自分を解放できる場、ということなのでしょうか?

さとみちゃん:制作については完全に自費なんですけど、でもそんなかっこいい感じのことではなくて、やっぱり何となく、 言ったら引かれるようなもの、という風に自分で思ってしまっているんですよね。でも…、はい、フリーペーパーは好きです。


野村:初めてフリーペーパーを作ったのはいつ頃ですか?

さとみちゃん:高校の頃に『下北ロック』という音楽系のフリーペーパーのスタッフとして関わったのがいちばん最初で、そこではちょっと関わっただけですけど、ゆるいイラストとか描いてました。で、そのあと は学生のころに『UmaGirl』を作って、それでこの『妄想星占い』です。

野村:『UmaGirl』が自分で作り始めた最初のフリーペーパーなんですね。

さとみちゃん:そうですね。馬がすごいかっこいいなと思っていて、でもそこまで馬術の知識もなく作り始めたので、本気で馬術が好きな人とかに怒られたりしましたね…。メールとかTwitterとかで…。馬は…もういいです。 あとは最近、『Himagine』というフリーペーパーで連載をしています。これは、「自由になんでも書いていいよ」って言ってくださったので、第一回目(Himagine vol.15)は斉藤和義で二回目(Himagine vol.16)は石原さとみについて書きました。どっちもすごい好きなんです。

Vol.15は「斉藤和義とカラオケに行ったときにリクエストするべき5曲」。Vol.16は「石原さとみになるということ」。こちらでも1ページまるまる妄想しています。



野村:では最後に、さとみちゃんの好きなフリーペーパーを教えてください。

さとみちゃん:『ナイスガイ』好きです。あと『食パンダッシュ!やまだちゃん』。私もパン好きなんで。あと、なんだろう…。意外と思い浮かばないです。

野村:ありがとうございます。『月刊妄想星占い』はまだまだ続きそうですか?

さとみちゃん:はい。これは、まだまだいけそうです。がんばります。



一見投げやりにも思えるほどの迷いのなさで(しかも妄想のみで)フリーペーパーを作り続ける“さとみちゃん”。こんなに適当に作っているんだ…というのが分かってしまってもなお、毎月自分の星座をチェックしてしまうことでしょう。来月の占いも楽しみにしております!


text・interview 野村(ONLY FREE PAPER)
photo 野村・松江(ONLY FREE PAPER)


2017-06-07 | Posted in OFP STAFF, インタビューNo Comments » 

 

インタビュー #4  「 BEYOND」(後編)



昨年4月に創刊されたLGBTが主題のフリーマガジン『BEYOND』の編集長であり、特定非営利活動法人東京レインボープライドの共同代表理事でもある山縣真矢(やまがたしんや)さんのインタビュー、後編です!開催目前のビッグイベント「東京レインボープライド2017」についてもお聞きしています。



野村:すごく内容が特化しているからというのもあると思うんですけど、LGBTのことを扱っているとなると、やっぱり誰かにインタビューした際に、誌面に名前を表記をするときに、例えば「バイセクシュアル」とか「ゲイ」ということを一緒に表記する場合が多いですが、それは、BEYONDではどういう意図で表記をしていますか?

山縣:BEYONDだと巻頭のところだと思うんですけど、取材をさせていただいたこの方たちが自分のセクシュアリティをどのような言葉で表現するのかって言うのは、そこにその人なりの思いとかアイデンティティとかがあったりする部分なので、同じことを書いてあってもその表記があるかないかで見え方が変わってくるんですよね。女性に見える人でも、その人が表明しているのがレズビアンなのかトランスジェンダーなのか他の何かなのかによって、やっぱり受け取られ方も発信の仕方も違ってくると思うんです。そういう意味もあって載せるようにはしていて、基本的には本人から言われたものをそのまま載せています。同じように年齢も、言いたくないという場合は載せていないですけど、読み手側の一つの情報として、時代背景や考え方の目安にもなるので、入れています。

野村:自分はこういう人だよという、自分のアイデンティティの所在を明らかにしておいて、その人の記事があって、というほうがより記事の理解度も深まる…ということですね。

山縣:はい。そうですし、そこをオープンにしていくというか、可視化していくというところは、重要なところだと思うんです。私はレズビアンです、私はゲイです、私はトランスジェンダーです、ということをちゃんと表明する人が増えて、それが受け入れられる世の中になればいい。BEYONDに出てくる人はそういうことを表明して活動している人が多いんです。基本的にこの巻頭部分は、LGBTブームというキラキラしたところだけでなく、色んなところで色んな活動をしている人たちに光を当てよう、みたいなコンセプトがあるので、そういう人たちをこちらもセレクションして、取材をお願いして…という感じなんです。

野村:なるほど。本当の意味での輝きとか美しさというところですね。ちょっと媒体の話とは逸れますが、こういうインタビューとかではなく、例えばLGBTのコミュニティって一言で言ってもやっぱりその中にいろんなアイデンティティの人がいると思うんですけど、そのコミュニティで集まったときに、この人はこういうアイデンティティの人で、みたいなことを前提として相手の話を聞いたりコミュニケーションが始まる、というわけではないですよね。

山縣:そうですね。個人的に僕はゲイバーに行ったりとか二丁目に行ったりとか、付き合いのある人ってやっぱりゲイの人が多いんですけど、パレードのスタッフとなると本当にいろんなセクシュアリティの人がいて、コアに関わっている執行部や運営の人はだいたいその人のセクシュアリティとかも含めて知ってはいるけど、ボランティアスタッフの方とかは本当にもうたくさんいて、年代もセクシュアリティもいろんな人がいるので。お互いに聞く事もあるだろうし聞かないこともあるだろうし、その辺はいろいろで、それも含めてコミュニケーションしてもらえればいいのかな、とは思うんですけどね。
ちょうどこの前、ボランティアスタッフの全体ミーティングをやったんですけど、高校生も多くて、30~40人高校生がいたりするんですけど、まあいきなり初対面で「あなたのセクシュアリティは?」というのはあれかもしれないけど、こう話をしていく中で「どうしてTRPのボランティアやろうと思ったの?」ってお互いに話が始まったりしたら、その中でそういう話もできてきたりするとは思うけど。

野村:高校生たちはどこでTRPのことを知ったり興味を持ったりして参加しているんですか?

山縣:学校単位で参加していたりとか、先生の繋がりとかですかね。

野村:ということは、LGBTというテーマに対して積極的というか、学ばせたいという姿勢の学校が多くなってきているということですか?

山縣:そういう学校も出てきた、ということですね。ちゃんと学校の承認も得てきているし、本当にたまにですが単独で来る、という高校生もいます。高校生以下の方は基本的には保護者の同意がないとTRPのボランティアにはなれないので、一応そういうものをきちっとクリアした人が参加してくれています。

野村:なるほど。高校生、まあ若いなーと思うけど、若すぎるってことも全然ないですよね。

山縣:はい。全くないと思います。



野村:BEYONDは現在どういうところに置いてますか?

山縣:新宿二丁目のakta(アクタ)というコミュニティセンターやいくつかのお店で置いていますね。スポンサーでもある「丸井」の渋谷店や新宿店など主要店舗にも置いてもらっています。丸井さんはすごく協力してくださっていて、パレードの当日はパレードコースである渋谷MODIの大型ビジョンをレインボーにしてくれたりもして。あとはぜひ5月6日、7日のTRPの会場に足を運んでもらえれば。当日、フェスタの会場やレインボーウィーク期間中の色んなイベント会場でもBEYOND最新号を置いていますし、6日、7日の会場にはバックナンバーも持っていきます。華やかで楽しくて、元気をもらえるような空間だし、「いやほんと色んな人がいるよね」というのが分かるイベントなので、そういうものを感じてもらえたら良いかなと思っています。もちろんしっかり頭で考えたり社会運動的な部分も重要なんですけど、まずは会場に来て楽しんでもらったり感じて考えてもらえればと。

野村:はい。期間中、山縣さんは毎日どちらかにいらっしゃるんですよね?

山縣:そうですね。フェスタ&パレード以外でも、東京レインボープライドの主催でいくつかイベントがあって、例えば、僕が企画してるのが5月4日の「性をめぐるアーカイブの世界~過去を未来へ伝える~」というトークショーで、これはけっこうマニアックなんですけど…。最近LGBTに関するものに限らずですが、デジタル化も含めアーカイブというのは言われるようになっていて、例えばアメリカだと、LGBTコミュニティセンターという立派なものがあって、その中にライブラリがあったりして、昔の資料やアーカイブがちゃんと保存されていたりするんですよね。今回登壇される方はみなさん、そういう「性をめぐる」色んな資料などを個人的に収集していらっしゃるのですが、では、LGBTコミュニティ全体として、これまでいろんな人がコレクションしてきたものとか、これからまた生み出されていくであろういろんな資料だったり紙媒体などを、どうやって歴史のひとつとして残していくか、ということを考えてみましょう、という趣旨です。

野村:おもしろそうです!



野村:LGBTの活動を続けて、いろいろ難しいところもあるとは思いますが、最終的にはどうなっていけば良いと思いますか?山縣さん個人としてのゴールみたいなものはありますか?

山縣:ああー。よくこういう質問を受けたときに「パレードが無くなることがゴールです」みたいな言い方をする人もいるんですけど、僕はあんまりそうは思っていなくて、ゴールは無いと思っているんです。SOGI(性的指向/性自認)や婚姻の平等といったことって、それこそ政権が変われば、制度が変わったりとかもあるわけですよね。時々の社会情勢とかでも変わったりします。
オランダは2001年に初めて同性婚という制度ができた国で、同性婚もそうだしそれ以外の人権のことについてもすごく進んでいる国で、いじめにしろ何にしろマイノリティ性を抱えてる人に対するフォローアップもしっかりしているんですけど、そういう国でもセクシュアルマイノリティの小学生や中学生がいじめられたりするんですよ。そういうドキュメンタリー映像を観たことがあって。日本からみるとかなり制度的にも進んでいるような国であってもです。性的なことというのは子どもとか思春期では特に、いじめとかに繋がりやすい。だから、オランダではそういうことが起こったときにちゃんと対応できる大人がいたり、どこに相談に行けばいいっていうような、機関や仕組みがあるんです。
まあ要は、性のことってマイノリティ以外でも悩むじゃないですか。「性」ってやっぱり生きることの根源にも繋がってくるので、例えばそういう色んな隔たりや差別のようなものがなくなっていっても、年に一回のこのパレードは、どんなセクシュアリティであれ、ストレートであろうがゲイであろうがレズビアンであろうが、色んな人が自分の生きることや性のことについて、こう、みんなでお祝いするような場として、ずっとあり続けていっていいんじゃないかなと僕は思っているんです。その中でセクシュアリティによる差別とか、そういうものがどんどんなくなっていったらいいですよね。
で、LGBTの運動的に言うと…。やっぱり具体的に法律ができたりとかですかね。ゲイブームと言われた90年代前半のころは、もっとふわっとしていた部分もあったと思うんですけど、今は条例や法律、差別解消法とか同性婚とか、具体的なものが課題として上がってきています。それは少し歴史が前に進んだってことなんじゃないかなと思っています。けれども、そこを越えていくのはまた大変で…。今の日本の社会状況とか政治状況だと結構難しいところもあるとは思うんですけど、そういう具体的な課題に向かって行く運動のひとつとして、東京レインボープライドも貢献できればいいなと考えています。とはいえ、LGBTブームと言われている昨今でも、まだまだLGBTに関して、きちんと知られていなかったり、そもそも知らない、という人も本当にまだたくさんいるのも現実だったりもするわけです。
そもそも「SOGI(性的指向/性自認)」というのは、あらゆる人に関わる属性です。なので、SOGIに関してマジョリティな人たちにも、自身の「生」にとって重要な「性」について考えるキーワードとしてSOGIを捉えてもらい、そこを出発点に、SOGIに関してマイノリティ性を抱える人たちに想いを馳せてほしいかな、と思っています。多様な「性」に寛容な社会は、豊かなんじゃないでしょうか、カルチャーとかの面にとっても。

野村:それこそが、ちゃんとした大人が増えていくってことですよね。

山縣:そうですよね。ぜひ5月6,7日TRP会場に来ていただければと思います。


聞けば聞くほど他人事ではないセクシュアルマイノリティのこと。お互いの性や生を尊重し合うというのは自分の性(=生)を大事にすることから始まるのだなあ。子どもが安心して育っていける環境というのは、ちゃんとした大人がいる社会なのだとつくづく思ったのでした。これほんと、誰も無関係でない大事な話。今年のGWはお互いの性を祝福しに渋谷へ行こう…!

『東京レインボープライド2017』、レインボーウィークは4/29~5/7に開催。都内を中心にあちこちの会場でイベントが開催されます。メインイベントでもあるパレード&フェスタは5/6,5/7に代々木公園です。今年のSpecial Liveは中島美嘉さん…!
TRPのサイトで詳細を確認してぜひ会場を訪れてみてください。

<パレード&フェスタ>
開催日
フェスタ:2017年5月6日(土)、7日(日)10時~18時
パレード:2017年5月7日(日)※正確な時間は後ほどお知らせします。
会場
東京都代々木公園イベント広場&野外ステージ
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<レインボーウィーク>
開催日
2017年4月29日(土・祝)~ 5月7日(日)
会場
東京都内を中心に全国各所
 ⇒ 各イベントの詳細情報はこちら



text・interview 野村(ONLY FREE PAPER)
photo 野村・松江(ONLY FREE PAPER)


2017-04-27 | Posted in OFP STAFF, インタビューNo Comments » 

 

インタビュー #4  「 BEYOND」(前編)



河原に佇みカメラに対峙する4人の男女。彼らの手にはプラカードとメガホン。
あれ?なんだろう、どこの国だろう、と思わず目を留め手に取ったのが『BEYOND』の創刊号。その写真からは、国籍も性別も4人の関係性も、さらには屋外なのに季節感も判別しにくい、つかみ所のないような、それでいて目が離せないような、何とも印象的な表紙。
このフリーマガジン『BEYOND』編集長であり、特定非営利活動法人東京レインボープライド共同代表理事でもある山縣真矢(やまがたしんや)さんにお話をお聞きしました。

『BEYOND』

「らしく、たのしく、ほこらしく」をモットーに、性的指向および性自認(SOGI=Sexual Orientation, Gender Identity)のいかんにかかわらず、すべての人が、より自分らしく誇りをもって、前向きに楽しく生きていくことができる社会の実現を目指し活動する特定非営利活動法人東京レインボープライドの機関誌として、2016年4月に創刊。
春と秋、年2回のペースで発行され、現在の最新号は先日発行された第3号。
http://tokyorainbowpride.com





野村:BEYONDはNPO法人の機関誌ということなのですが、まずは団体の成り立ちや活動についてお話を伺えますか?

山縣:はい。東京レインボープライドという団体は2011年の5月に設立されまして、現在僕と杉山文野が共同代表理事を務めています。

野村:毎年春に代々木公園周辺で開催されているレインボーパレードを主催しているということですが、そもそものパレードのいちばんの趣旨というのは、セクシュアルマイノリティの認知を広める、という理解で合っていますか?

山縣:まあそうですね。LGBTとかセクシュアルマイノリティの可視化とか、差別や偏見に対して訴えていくとか…。というものがコアにあって、それにフェスティバルというか、祝祭的なものが加わっていく。国によっていろんなやり方があったりとか、打ち出し方は違いますけど、広く一般的に、プライドパレードというのはそういうものですね。
そもそもの発端というのはアメリカのNYで、1969年6月28日にグリニッジビレッジにあるストーンウォールインというゲイバーで起こった事件(※1)の1周年のデモ行進が、現在世界各地で行われているプライドパレードのスタートといわれています。そこから違う都市にも展開していって、日本での最初のパレードは1994年に開催されています。

野村:日本でパレードが始まるきっかけというのは何かあったのですか?一時期LGBTブームというのがあった、というのは以前何かで読んだのですが…。

山縣:ええと、当時はLGBTと言わなかったんですけど、’91年、’92年あたりにゲイブームっていうのがあったんですね。雑誌で取り上げられたりテレビで取り上げられたりとか。伏見憲明さん(※2)が「プライベート・ゲイ・ライフ」(1991年刊行)というのを出したり、映画の「プリシラ」(1995年日本公開)や「二十歳の微熱」(1993年公開)もその頃で…。そんなゲイブームの前には、「府中青年の家事件」(1990年2月)(※3)という事件も起こりました。同性愛者の団体が東京都を相手取って裁判になるんですけど、そういうのもあったりして、90年代の前半頃にちょっとしたブームがあったんです。

野村:それは主にそのライフスタイルとか、ゲイのコミュニティで起こっていることに注目が集まってたということだけでなく、根本的な人権の問題ということに着目する人も増えてきたという時期だった?

山縣:まあ…裁判もあったし、そういうのを取り上げた本だとか、ドキュメンタリー番組というのも当時はやられたりもしていたけれど。とにかくアンダーグラウンドでなくメジャーなメディアが取り上げ始めたということで注目され始めた時期で、’94年にパレードをやろうという流れもできたと思うんですよね。いちおうこれはアジアで2番目の開催と言われています。
僕は2000年のパレードに、当時は「レズビアン&ゲイパレード」と言っていたんですけど、そこでフロート出展者をサポートするかたちで初めて参加しています。で、2002年から実行委員というかたちで運営に携わるようになりました。もう15年ですか…。

野村:15年…!毎年パレードを開催しているのですか?

山縣:それがなかなか、毎年とはいかなかったんですよ。東京のパレードというのは、’94年から始まり、主催団体やパレードの名前も変わったりしながら、開催が続いたり、何年か開催がなかったり、パレードのないフェスティバルという形での開催になったり、という感じできて…。で、2011年5月に東京レインボープライドという団体を設立し、翌年の2012年4月に第一回目の「東京レインボープライド」を実施して、そこからはもう毎年やっています。



野村:2015年にNPO法人化して、いよいよ翌年に機関誌である『BEYOND』の創刊ですね。こちらを創刊した経緯についてお聞かせください。

山縣:もともと2012年の第一回目の東京レインボープライドの時から、「TRPオフィシャルガイド」というタブロイド判の媒体で、具体的にプライドウィークとかフェスタやパレードなどのいわゆるガイドとして毎年作っているものがありました。広告を入れて作っているのですが、だんだん大企業なども入るようになって誌面の棲み分けが必要になってきたというのもあって、法人化を機に棲み分けをしたこちらのBEYONDは、もう少しかっちりしたもので、団体の機関誌として作ろうということになりました。創刊号を2016年の4月に刊行しているんですけど、2015年の年末くらいから相談し始め…、それこそ雑誌のタイトルからですね。昨年の東京レインボープライド2016のテーマが“Beyond the rainbow”というテーマだったんですけど、その“Beyond”というのを機関誌のタイトルにしましょうということになった。



野村:性に限らずマイノリティのコミュニティというのは、情報を探すとしたらやはりまずはインターネットだったり、広めるほうとしてもインターネットのほうが“広く早く”ということで力は大きいかなと思うのですが、あえて機関誌という紙でつくる、紙で渡す、ということにこだわりはありますか?

山縣:もちろん、こだわりはありますね。編集もそうだしデザイナーにしてもアートディレクターにしても、その辺に対するデザインの力とか紙の力とか、webとは違うもの、というのはやっぱり意識しているし、こだわりは持って作っています。
あとはやっぱり、タブロイドのガイドのほうは、イベントが終わったらその役目を果たすんですけれど、BEYONDは機関誌で息の長いペーパーだと思っていて、特集だったら現時点でのその状況とか、そのときのトピックの人だったりとか、そういうものを入れているので、次の号が出たとしても、バックナンバーとして欲しい人はいるだろうと。webだとやはりどんどん回転していって消費されていく、みたいなところがありますけど、紙はこうやって手に持ってめくったり、ときどき引っ張り出してみたりとか、やっぱりそういうものだと思うので、何か引っかかりを持って読んでくれた人や手に取ってくれた人に、ずっと手元に置いておいてもらえるようなものであればいいな、と思います。

野村:そうですよね。BEYONDは紙で存在感があって、思わず目を留めて手に取ったり人に渡したりしたくなる、というのはすごくあると思います。

山縣:人から人へ渡っていくという意味では作り手の思いが伝わる部分も大きいと思うし…。実際、紙は大変ですけどね(笑)



野村:毎号巻頭に登場するスーパーシャイニーの候補はいろんな方がいると思いますが、取材対象や扱うテーマはどのように決めていますか?

山縣:取材対象は、何となくその号のテーマや特集の内容で決めていますかね…。僕の繋がりだったり、毎回スタッフに提案してもらったりもしていますし、結果的になんとなくまとまることもありますね。例えば、この新しい号だと、「LGBTと行政」という特集を組んでいるんですけど。2015年に渋谷区などで同性パートナー制度ができて、11月から世田谷区と渋谷区で同時に登録が始まってちょうど一年ちょっと経ったところで、それ以降にもいくつかの自治体がそれに続いていたり、この6月から札幌も制度を導入するんですけど、今のLGBTブームみたいなもののきっかけとして、同性パートナー制度はやはり大きいんですよね。ただ、同性パートナー制度って、要は“パートナー”の話なので、みんながみんなパートナーを持ってるわけではないし…。

野村:確かに、それはそうですね。

山縣:そうなんです。セクシャリティも様々ですし、実際、パートナー制度のことだけでなくて、自治体レベルでももっと条例とか計画とか、いろんなもので性的指向とか性自認などに関することってやられていたりするんですね。そういうものも知ってフォローしましょうということで、まず、自治体の同性パートナーシップ制度について解説した後、それ以外の自治体の動きや制度などを紹介しています。で、そのうえで、地方自治体だけでなく、もっと大きい国レベルでの法整備みたいなものがやはり必要だよねということで、国レベルの法整備の現状を、G7諸国との比較などもしながら、解説しています。作り終えてから何となくまあ一冊で通底するものはあるな、と思ったりもしています。



野村:この国別での比較は状況がすごく分かりやすいです。

山縣:この表を見るともう一目瞭然なんですけど、人権にしても同性カップルのことにしてもG7の中で日本だけ突出して法整備が遅れているんですよね。まあ、ここにロシアが入ってくるとロシアはもっとひどかったりするんですけど…。

野村:日本が遅れてるというのは、なぜだと思いますか?特に欧米とかと比べると。

山縣:人権については、まず根本的に考え方が違うなと思うんですよね。LGBTのことだけでなく、日本は人権とか差別に関する包括的な法律が無いんです。部落差別や障がい者差別など、個別のものに対する法律はいくつかあるんですけど。一方、例えば、イギリスでは、「2010年平等法」で、あらゆる分野における性的指向や性自認を理由とした差別の禁止が規定されています。あと、この表の「国内人権機関」というところを見ると、日本には「国内人権機関そのものがない」と書いてありますけど、他のG7諸国には国内人権機関がまずある。人権を擁護するために勧告などを行う機関があるというのが前提で、その国内人権機関の管轄に性的指向があるかないか、というレベルの話をしているわけですけど、日本はそもそもそういう機関そのものがない、みたいなところで…。もう二段階くらい差別ということに関しては遅れていると思います。というのと、同性パートナーに関して言うと、いわゆる「伝統的家族観」とか儒教的な家族観とか、あとは戸籍制度ですね。「家」を中心とした戸籍制度があるというのは同性パートナー制度とか同性婚を実現させていくにはすごく大きな障害になるんだろうな、というのがやっぱり他の国とは違うところだと思います。夫婦別姓もできない国ですから。その一方で、日本は宗教的な縛りは少ない…というところもまたあるとは思うんですけど。

野村:確かに、宗教で縛られるというのは日本ではあまり感じないですね。

山縣:例えばBEYONDの第一号でも記事にしていますが、韓国は保守的なキリスト教の団体とかがすごく反対勢力としてあって、露骨な嫌がらせや妨害とか、結構すごいのがあるんです。パレードやっててもガンガンそういうヘイトが飛んで来るような。

野村:日本では宗教的なものはあまりないとして、例えば政治的なところからの圧力とか嫌がらせとかはあったりするんですか?

山縣:そんなに露骨には…、でもまあ、だんだん増えてきているとは思います。LGBTの権利とか婚姻の平等といった課題が表面化するようになって、それを快く思わない人たちの声も出てくるようになったということだと思います。

野村:知る人が増えた、ということでもありますよね。

山縣:うん〜そうそう。割とどこの国でも同性婚制度とかできるときって、例えば議会を通る時でも結構僅差で通ってたりするんですよね。どこの国もやっぱりすごく国を二分するというか…。フランスなんかは同性婚制度ができるとき、賛成する側で何十万人というデモがあったら、反対する側も何十万人というデモがあったりとか、最新号で取り上げた台湾でも、同性婚の法制化に賛成する集会には25万人もの人が集まっているんですよ。で、一方でそこまでは多くなかったけど、同性婚に反対する人たちの集会も10万人くらい集まっていたりするんです。一般的には賛成する人が多いし、だからこそ制度が成り立っていると思うんですけど。

野村:日本もそういうのを越えていかないと…、というのはあるんですね。そういう意味では、例えば、LGBTへのヘイトの声が聞こえてきているということは、日本も今、動き始めている、ということなんですかね。

山縣:そうだと思いますが、もっと大きな視野で見てみると、もちろんLGBTイシューも重要で、僕らは当事者としてLGBTに関する課題をどうにかしたいと思って活動していて、パレードもそのためにやっているわけですけど、共謀罪にしろ、教育勅語の問題にしろ、そういう状況が今の日本にはあるわけじゃないですか、実際に。そうなってくると、LGBTの以前の問題として、日本の社会がどんどん息苦しくなってきているような気もしています。



日本におけるレインボーパレードの始まりから紙媒体BEYONDの誕生まで、状況は変化はしているけれど、まだまだマイノリティが生き辛いという社会を作っているのは私たち一人一人なのだと思わされます。そして誰もが前を向いて生活できるような社会にしていくのもまた、私たち一人一人なのだなあ。とても興味深く考えさせられます。集中力MAXのまま後編へ…!開催間近の東京レインボープライドについてもお聞きしています。



注:
(※1 1969年6月28日、ニューヨークの「ストーンウォール・イン (Stonewall Inn)」というゲイバーが警察による踏み込み捜査を受け、居合わせたがゲイやレズビアンなどLGBTの人たちが初めて警官に立ち向かって暴動となった事件)
(※2 執筆や講演などで90年代のゲイ・ムーブメントに影響を与えた評論家、小説家)
(※3 同性愛者の団体に対し、東京都が「青少年の健全育成によくない」という理由で宿泊施設「府中青年の家」の利用を拒否した事に対して、1991年2月に団体が東京都を提訴、1997年9月の二審で原告団体の全面勝訴で結審。)



text・interview 野村(ONLY FREE PAPER)
photo 野村・松江(ONLY FREE PAPER)


2017-04-27 | Posted in OFP STAFF, インタビューNo Comments » 

 

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